J.D サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝訳と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹訳についての話。
この作品はあまりにも多く読まれている作品なので村上訳版が出たとき、賛否が分かれました。
私は十代始めごろに初めて読んでから、何度も何度も野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」を読んだせいか村上訳を読んだとき、すごく違うので驚きました。何が違うのかと言うと、主人公の語り口調が全然違うということと内容の解釈の若干の違いについてです。野崎訳ではよくわからなかったことが村上訳では「なるほど」と思う箇所があったり・・。また、野崎訳は少し文体が古臭いといわれています。じゃあ村上訳は新しいのかというとそうではなくて、しいて言えば村上春樹的なのです。
原文に忠実と言われている野崎孝訳と作品を理解しやすいように解釈した村上版と比べると、正直なところ、これから読む若い人は村上版を読んだほう良いと思います。でもやはり、野崎訳の独特の語り口がこの作品の最大の魅力だといっても過言ではないような気がするし、やはり野崎訳かな?
よく言われることに原題の"The Catcher in the Rye"は直訳すると「ライ麦畑の捕まえ人」となると言うことについて、これは物語の中で主人公ホールデンが妹に将来何になりたいのかと聞かれて、「You know what I'd like to be? I mean if I had my goddam choice, I'd just be the catcher in the rye and all.」という箇所から来ています。広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが崖から落ちそうになったらつかまえる、ライ麦畑の捕まえ役になりたいと彼は語ります。これでは「ライ麦畑でつかまえて」という訳はおかしいんじゃないかということになりますが、よく読んでみるとおかしくもないような気がするのです。捕まえ役になりたいと語るホールデンは実は「つかまえて」もらいたいと思ってるからです。大人(Phony)と子供(Innocence)の狭間で揺れ動く心を「ライ麦畑でつかまえて」という題名に象徴的に意訳したのではないかと思うのです。
〜〜題名と内容の関係ということで思い出すのは、カポーティーの「ティファニーで朝食を」の映画化作品で、原作ではそんなシーンは出てこない(たとえ話として使った)のにオードリー・ヘプバーンがティファニーのお店のウィンドーを見ながら朝食を食べているシーンがありました。ちなみに原作と映画ではストーリーも全然違う。しかし、映画は映画で大変良い作品です。余談の余談ですが原作は短編集ですがその中の「クリスマスの思い出」は傑作。〜〜
なにが私の心を捉えて離さないのか、私はいい年をしていまだに「ライ麦畑でつかまえて」を読み返しています。J.D サリンジャーの他の作品「ナイン・ストーリーズ」や「フラニーとゾーイー」などのグラース一家の物語も面白いです。特に「フラニーとゾーイー」はとてもよい作品です。あ〜む。
翻訳夜話2 サリンジャー戦記
村上 春樹, 柴田 元幸